
旅先の老舗喫茶店での出来事だ。
休日朝七時のモーニングタイムだが、店内は空いていた。私の他には、一人客の男性が、二組ほど。カウンターに座った常連とおぼしき客と年配のマスターが時々話をするくらいで、静かな時間が流れていた。
私の前にもマスターが丁寧に淹れたブレンドが運ばれてくる。ゆったりとしながら、ほどよく焼けたトーストを味わっているときに、それは起こった。
半地下のその店の扉がカランと開いたかと思うと、二十歳そこそこの若い男子が現れた。一瞬、この店のお客というには若いな、と感じた。
次の瞬間、若者は「ここトイレありますか」と聞いた。困ったような表情で、声に焦りが混じっている。酔った様子ではなかった。
喫茶店の商店街の中にあり、モーニングに来る道すがら、あちこちで若者の姿を見かけた。夜通し飲んでいたのか、朝までカラオケに行っていたのか、まだまだ元気そうな若者たちが、ちょうどこれから帰っていくところだった。トイレの彼も、そういったグループの一員かもしれないが。
「トイレだけか?」とマスターは落ち着いた口調で問う。そうだと答えた若者に、マスターはそれはダメだ、と軽く諫めた。飲食店で何も注文せずにトイレだけ借りる。一般常識としてはよろしくない。
マスターは続ける。「我慢できないんか」「はい、めっちゃお腹痛くて」「それなら今回だけはええ」
助かった、という顔で若者は教えられたトイレの場所に駆け込んだ。
その後、そのことに触れる客はなく、マスターも特には語らず、またしばらく店内に静かな時間が流れた。
用を済ませてトイレから出てきた若者は、はっきりとした声で「ありがとうございました」と言い、頭を下げた。
マスターは彼を見る。
「大丈夫やったか」 「はい」
「汚してないか」 「はい」
「今度、遊びに来い」 「はい、わかりました!」
彼はもう一度軽く会釈をすると、階段を上がって去っていった。
「珈琲を飲みに来い」でも「モーニング食べに来い」でもなく「遊びに来い」というその言葉選びに、何だか親戚のおじさんのような、まちのお父さんのような、不思議な距離感を感じた。
若者が本当に店に「遊びに来る」のかは分からないし、マスターも本気で期待しているわけではないとは思う。それでもこの記憶は若者の頭の片隅には残って、いつかふと思い出したりするのではないかと考えてしまう。
なんだかちょっとした物語を垣間見たな。そんな気持ちになった、旅の途中の、朝の出来事であった。

